エッジに生きる

病むは 氣が 已む

2/9 北小 本番でした。

その前の記事 2/10になっていますが 8日の間違いです。すでに変だったのか
いつも変なのか 2/9のあと 真夜中 歯の根もあわぬほど ガタガタふるえて
2日間 よく覚えていません。
頭痛とかはどうでもよくて ただ水が飲みたかった。そして まったく重体では
ないのだが 向こうとこっちの間 の 川? 深い深淵?の とても向こう側に
ちかいところにいたような気がします。

夢を見ていました。もうよく覚えていないのだが あの世とこの世のことわり
が わかったような 諦念が ありました。

2週間たっても その感じはつづいていて その前より 時間が経つのがおそく
感じられます。

八雲second はわたしにとって雪辱戦 きのうは その 練習 1回目です。

日常と非日常

朝の学校の語りは 日常の延長でいいと思います むかし 囲炉裏を囲んでの 
イメージ 昔の日常が 今は 非日常だけどね

ステージの語りは その延長の場合もときにあるが ほとんどは 別物 

語り部は 日常から非日常へ 次元の違う場所に聴き手をつれてゆくつなぎ手 
メンバーのみなさんには 聴き手のみなさんを端から端までよく見て といい
ますが 実は わたしは 聴き手を ゼンゼン見てはいないのです。

どうなんでしょうね

つなぎ手は 客観性を ギリで 保つべき ともいいましたが …. 世阿弥
さまのおことばです。

「日常と非日常のあいだにいる / キラキラなにかが降りしきる静寂
 / でも ひとりひとりが見えている」 「半覚醒の 夢の中みたいな」ときが 
いっとうしあわせな気がしますが そのとき意識が覚醒してるかはわからない

エッジ はざま あわい

きのう 練習で ヘルンさんは なかなかでしたが 雪女は 
怒りと悲しみに身を灼いて 叫びながら 煌く塵となって 吹雪のなかに
消えてゆきました。

聴き手を非日常へ つれてゆく あるいは 場をつくる =ステージの
語り部のやくわり (語りの会の内容にもよる)は MC 祭祀者でもあると 
理解していますが

そのリスクは

聴き手を置いていってしまうという心配 祭祀者 であることを忘れる
もうひとつは 日常にとどまってしまう 祭祀者 であることを忘れる

だと思います。

それは 小泉八雲というひとに添うことにならないばかりか 語りの本質と
いうか 芸能の本質が そうだから 飛ばなくてはならない。

飛ぶ 何処へ向かって? と思います?

そのこたえは それぞれでいいし もしあなたが語り部ならそのこたえが 
今のあなたの語り部の領分。
わたしは? いまは大それたこといえないですね せいぜいエッジです。
この世のエッジから飛ぶ 橋をかける

あわい はざま ともいう

八雲の世界は ヘルンさんをのぞいて 非日常です。
ヘルンさんの思い出の役目は その世界に導入すること

櫻は 生と死のはざま に咲く花

はじまりであり 終わりでもある

あぁ ヘルンさんで 櫻が幾重にも幾重にもって 原作に無いセンテンスを
入れこんだのですが やっと 意味が腑に落ちました。