戦後80年・子どもたちの戦争

朝のおはなし会 6年1組で 宮島満子さんの 体験のおはなし 「それなら行く」と山田清一郎さんの「トマト」を語りました。聴いてくれる子どもたちのまっすぐな視線がわたしの心を射抜くようにも感じられました。身じろぎのひとつもなかった...... 満子さんの家族は満子さんが3歳の時 満州に移住しました。当時 日本政府は500万人の移民を目指していたのです。けれども 満州は酷寒の地 たとえ大地主になれると国から甘い言葉をかけられても 30万人くらいしか 満州にはわたりませんでした。

最初はよかった..... しかし8月9日 零時 ソ連が国境を越えて攻めてきた。その直前 関東軍は根こそぎ動員で徴兵はしないという約束だったのに男たちを連れ去っていたのです。残っていたのは女子ども老人でした。空からはソ連の飛行機 地上は戦車 襲撃され追われ何百キロも 泥水をすすり草を食べて 歩き続け 収容所のある奉天にたどりついたのは 11月の終わり.....ちらちらと雪が舞い 水のあるところは凍っていました。家の中でも零度 外は零下30度 食べ物もなく いつもおなかが空いていました。最初にけがをしていた二番目のにいさんが亡くなりました .....

満子さんは37年後に日本に帰ることができました。一方国内でも B29の空襲などで 両親と死に別れ 生き別れた 12万人の子どもたちが焼け跡をさまよっていました。政府は浮浪児 戦争孤児と呼ばれたこの子たちに手をさしのべようとはしなかったのです。神戸大空襲であいついで父母を喪った山田清一郎さんは 電車に無賃乗車して上野に向かいます。隠語でノガミと呼ばれていた上野 その地下道には400人の戦争孤児がコンクリートの上でごろ寝をしていました ......

このふたりの生きるための戦いを 2007年の日本に生きている子どもたちは 時空を超えて 感じてくれたのだと思います。戦争はもっとも弱いものにもっとも強い打撃をあたえます。満州で多くの赤子がすてられ また亡くなりました。地下道で幼い子どもは生き残ることはできませんでした。かぁちゃん.... とつぶやいて 死んでいったそうです。