改稿・違いがわかるひと
違いがわかる男の・・・・というCMが むかしありました。
いまや 違いがわかるひとのほとんどは ドリップ珈琲に
走りましたから CM 自体は意味がなくなりましたが.....
違いがわからないひとには おしえてもムダ と シャンソン
の先生から 今日聴いて一理あるかな と 思いました。
今日の新曲は53年前の曲なので あたらしい曲には 名曲は
ないのですかと訊いたところ.....
先生はわたしのリズム感が よろしくないので変調の多いあた
らしい曲は無理 と いうのです。メモリーだって ON MY
OWN だって 変調まみれで 歌っていますけど....
さて カタリカタリのメンバーは 長年 戦争体験を実在の体
験者さんの代わりに語ってきました。
そこで 求められるのは 『今』 五官で感じるものを聲の響き
で伝えること その時の その人間の心情を聲の響きで伝える
こと つまり過去起きたことではなくあたかも 今 起きてい
るように体験者の リアルを伝えることです
”小泉八雲の世界”で 求められるのは ものがたりを今に現ぜ
せしめるという意味においてはおなじなのですが その伝える
中心が見えない モノ なのです。ふしぎ あやしの世界
日本はかつて ふしぎ あやしと 日常が共存する国でした。
八雲が幼少時代を過ごしたアイルランドも 森の文化とアニミ
ズムの国でした。乳母がケルトのフェアリーテールをよく話し
てくれたそうです。
そのような世界で育った八雲にとって 不思議や妖しと日常が
まだ共存していた明治の日本は興味深く 懐かしく 源流とも
思えたことでしょう。
戦争と平和の語りと 小泉八雲の世界の語りは 違うのです。
メンバーのみなさんは 人情 ひとのこころは 語れている。
正直 人情って 語るのは そうむつかしくはありません
いつも ひとは 自分やひとのこころと対峙しているので。
けれども 見えないモノは存在しないという前提でおおよそが
語っているように わたしの耳には聞こえます。
人間の脳は 「見たいモノしか見てないし、見えていない」。
けれど 見たくなくても あえて 見なくてはなりません。
モノ語りのモノとは 見えないもののこと ものがたりの本質
は 見えないモノを語ること でしたから。
音楽も 語りも 耳でまなびます 語るまえに聴こえる耳を
見えないモノの響きを自分の耳で感じ取れるか ひとりひとり
にとって 大きなチャレンジですね。
たいていの子どもはそうですが わたしは子どものころ異世界
を感知していました。恐怖と美はせなかあわせにいつも すぐ
そばにありました。
ありえないモノを見たし感じたし 霊の存在を確信しています
むかしは 語っているさなか ガタガタ震えだし トランス
状態に落ちることもしばしばでした。
理詰めで教えるようになって 自分の語りも変わりました。
しぶとくつよくなったので(笑) 恐怖もなくなり繊細さもどこか
に消えました。
たいせつなモノを 失ったような さりながら 代わりに仲間を
安定を得たような 気がします。
むかしのように自由に揺らぎながら語りたいと 想うことはあり
ますけれど。
