改稿/看護学生とボランティア会議

市内に看護学校ができて 半年。社会福祉協議会からのお誘いで
参加しました。真新しい校舎 最新の設備 もう一度女学生に
なれるものなら なりたい (笑)

わたしは チーム《9》
看護学校の先生 + 学生ふたり + ボランティア3名

同席のボランティア団体は 男性二人 清掃をしている団体と
パペット・人形劇で施設などをまわっている団体

なぜ ボランティアをしているか
ボランティア活動の喜びは?
ボランティア活動をつづける コツは?

ボランティアの方々はよどみなく確信をもって答える
要約すると 生きがい つながり 楽しさ

わたしは 次第に 微妙な違和感を 感じ始めた
たとえば ひとつの公演を立ち上げるのは苦しみの方が多い。
なぜ こんなこと はじめたんだろう と いつも思う。
今日のお稽古も 声について 気が付いてもらうために
表をつくったり 打ち上げをしたいけれど メンバーの顔色を
うかがいつつ だし ひとりひとりの語りの深まりはうれしい
けれど 全体のバランスをどうもちあげてゆくか
悩みは 果てしない。

もちろん 聴き手のみなさんに 届いたときのよろこびも
筆舌に 尽くしがたいのだけれど....
つらいときは ほんに つらいです。

わたしは 語りを 種子を撒くことだと思っている
いつ 発芽するかわからない 種子を ぽつりぽつり 撒いている
腰を折って ひとさしゆびで 大地に穴をあけて ひとつぶ ひとつぶ

ながいながーーい道のりである 結果を見ることはほぼない。

ボランティアで 語りをするけれど 文化団体というほうが近いかも
知れない  廃れゆく口承文芸の砦として いや碑としての?

けれども メンバーたちとは 乖離がある
若い語り手である彼女たちは 本を語る都市のストーリーテラーだ。
昔話も語るが 絵本も語る

直接 生きているひとから 戦時体験を聴いたことのないひと
直接 口承の昔話を 聞いたことのないひとも いる

現代の語り部は どのように生きて どのように語ってゆけばいい?
わたしは メンバーに自分が楽器であることを 知ってほしいし
その楽器をみがき つかいこなすすべを みずから 学んでほしい
そのヒントを手渡すことが もはや 精一杯
あとは 好きなものがたりを 語ればいい。
自分の楽しみのためだけでも かまわない。
語りをステータスや言い訳にしないなら なんでもいい。

語りは 文化であるとどうじに 芸能であり 道 であるから
その 旅は 他のさまざまな道とおなじ 自分を知ることである
それは 楽しくもあるが 苦しくないはずが ないのである
なにものかが かならず その贄をうけとり 応えてくださるので
あるが それは まだ 彼女たちには わからない

芸能は 神への捧げものを 起源とする。
しかしながら 若い語り部たちには 神の存在が はるけき彼方
である このジレンマ。
(日本人は神を喪った これは戦後のアメリカの明瞭な施策である)

では 神とはなんであったろう.....目に見えないがたしかに存在する 
ひとが生きるための 律のようなもの .... 天地のあいだに自然に
充満していた エネルギー.....

そこで わたしのとりとめない思考は ぐるぐる廻る
モノ語りの モノは 見えないモノ 懼れる モノ
もしかしたら 人の考える善悪を超えた モノ


いにしえの 日本人の 善悪の基準は うつくしいか うつくしく
ないかだった。今日のお稽古の結論は それぞれが語るモノガタリ
のなかのうつくしさをみつけ それを 伝える 

八雲が 小躍りしたものがたりは どれもが おそろしい そして
うつくしい ものがたりだった。