レイテ その2
甘かったです。昨日は 将校目線の書物から起こしたのですが 今日 下士官 兵士 の 戦争体験を読んで とてもじゃない このまま出せないと思いました。第一師団は2.26事件を出したために満州に行き かくかくたる戦果をあげて レイテに送られたのです。海軍の情報で 敵は叩いてあるから 楽勝......1週間でカタをつける軽い気持ちで行ったのですが.......
11/1 オルモック湾上陸 その翌日 激しい砲撃を受けます。アメリカ軍はすでに上陸を果たしていました。第一師団は先遣隊や 旅団と合流するはずでしたが オルモック街道をリモン峠に向かって行軍 けれども片側崖 片側湿地帯の一本道を進む日本軍は アメリカ軍の格好の餌食でした。砲撃にやられ 1週間分の口糧は底をつき 50日のリモン峠の戦いで雨が降らない日は4.5日だけ......
ぬかるみから足を引き抜き引き抜き 兵隊たちは進みます。すでに日本に飛行機はなく補給路は絶たれ空からは砲弾・グラマン 横道からは現地人ゲリラ 正面にアメリカ軍 陸軍は孤立無援でした。水を飲もうと水際まで這い進み 水を一口飲んでこときれている若い兵士たちが積み重なっていたそうです。やせ細り 腹のふくれあがった 兵士たちの遺骸のうえを 後から来たものは進みます。なきがらは2.3日で白骨になったそうです。84000人のうち 80000人が亡くなりました。
日本の兵隊は 死守せよ といわれれば 逃げることはしなかった。餓死寸前でも戦った。弾はない 食べ物はない クスリはない なにもない そのなかでからだひとつで戦い続けた レイテだけではない ガダルカナルでもニューギニアでも みんなそうだった。
レイテ海戦は 史上最大の海戦だった。丙種合格の父は根こそぎ動員で 水兵として山城に乗艦するはずだった山城の生存者は1500名中10名。乗っていたら今わたしはここにいない。第二艦隊の死亡率は大和・武蔵より多いのではと思う。伊黄島もそうだが職業軍人より 元銀行員 八百屋 教師 少年兵の方が忠実だったと思う。
レイテ海戦は 謎の反転で 終わった。わたしは 陸軍のほうが実はよく戦ったと思う。 そして末端の兵卒が頑張った 何処の国の軍隊より粘りがあり 強かった。しかし 上層部がほんとうに愚かだった。なかには 宮崎 栗林 樋口 など 戦略に長けてなおかつ仁ある将もいたけれど。
いまもあまり変わらない。政治家たちが愚かすぎる 国民をつんぼ桟敷において振り回す 国の元 農業をないがしろにし 卑屈な外交 ばら撒き外交に終始 国力と希望のみなもと 子どもたちを大切にしない。先を見通せず 兵を思いやれない指揮官をいただく兵隊は不幸だ。自分の権力と懐まわりしか考えない政治家の言いなりになる国民の明日は不幸だ 誇りに足る住むにやさしい民主的な国を子どもたちに残せないおとなたちは いったい何を生きてきたのだろう。。